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zoom RSS ”番外編”FDAで小松から能登路

<<   作成日時 : 2010/03/30 17:08   >>

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画像3月26・27日静岡空港からFDAで小松空港へ、レンタカーで能登路を訪ねた:息子との二人旅:仕事上FDAの就航に係わり本人は体験搭乗を勧められ、それに同行しました。 

  浜名湖上空から             安宅の関左から義経・弁慶・富樫画像画像









                                                                     8時半静岡発、9時半小松着 浜名湖を過ぎ伊勢湾上空辺りから日本海方面に横断、小松空港はみぞれ交じりの天候だった。先ず初め、空港の直ぐ西、海沿いに弁慶の勧進帳で有名な安宅の関を訪問、小雨降る中 観光客も少なく施設だけが広く拡がり土産物店が流す、歌舞伎勧進帳の謡いがスピーカーにのって響き渡っていた。和倉温泉泊なので北陸自動車道に沿った8号線を走り、金沢市から かほく市に抜け内灘ICから能登有料道路に、高松 道の駅 SAで昼食タイム珍しいイカの黒墨ラーメンを食しました、美味しかったです(^・^)この辺り加賀百万石・前田家 縁の寺社史跡が多く、巡りたかったが、景勝地を主体に巡る事にしました、そこで能登金剛 約30kmに亘って奇岩、奇勝、断崖が連続する海岸であり、能登半島国定公園の代表的な景観の一つ。松本清張の小説「ゼロの焦点」の舞台となったことで、全国にその名を知られるようになっようだ。一帯の海岸は日本海の荒波によって浸食されたもので、名称は朝鮮半島有数の景勝地、金剛山に因み、それに匹敵する景観という意味合いを持つ。見所としては巌門、関野鼻、機具岩、ヤセの断崖、碁盤島、吹上滝、増穂浦、玄徳岬などがある。当初輪島まで北上しながらそれぞれを探勝する積りだったが(*_*)

  厳門鷹の巣岩                        幸せの厳門橋
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画像雲たれてひとりたけれる荒波をかなしと思へり能登の初旅 と書かれ 松本清張先生に碑文を依頼し昭和36年に建立したものだそうです。松本清張の小説『鬼畜』でも、映画の方で能登金剛が使われ岩下志麻が謎の能登の女を演じたとある。

画像能登島(のとじま)は、石川県七尾市の七尾湾を塞ぐ形で浮かぶ島。面積46.78km²。周囲長71.9km。一島で一町(能登島町)だったが、2004年10月1日合併により七尾市の一部になった。能登半島国定公園に含まれる。島によって隔てられた島の三方の海を、それぞれ七尾北湾、七尾西湾、七尾南湾と呼ぶ。大口瀬戸によって穴水町と、三ヶ口瀬戸、屏風瀬戸及び小口瀬戸によって七尾市の半島本土側と対する。能登島大橋が屏風瀬戸に、中能登農道橋(ツインブリッジ)が三ヶ口瀬戸に架かる。沿革によると1982年に能登島大橋が架りフエリーが廃止され1999年にツインブリッジが架渉された。双方とも距離も長く立派な橋だった。                                島内は民宿が散在し、ガラス工芸・水族館・須曽蝦夷穴古墳(日本には数少ない高句麗式の古墳)などあるようだがこの季節閑散として静かな雰囲気が漂う。春・夏・秋の季節観光客がドット押し寄せるそうだ。ナマコの産地だそうで穏やかな湾内に漁をする漁船が数隻浮かんでいる。

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画像まだ時間がある、どうしよう七尾城祉が近くにあるようだ、どんなものか訪ねた。島から15分ほどで到着、幾筋もの大小の尾根に無数の砦を配置した大規模な山城である。「七尾」という名は「七つの尾根」(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)から由来されるという 七尾畠山氏の初代当主で能登国守護の畠山満慶が正長年間頃に この地に築いたといわれるが、当時の七尾城は砦程度の規模と見られ、行政府である守護所も府中(現七尾市府中)に置かれていた。次第に拡張、増強され、以後約150年間にわたって領国支配の本拠となり、五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移されたという。。山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、繁栄の歴史が刻まれている。日本五大山城のひとつに数えられるほど強固な城であったと。 1577年(天正5年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲されるが、一年にわたって持ちこたえた。しかし、重臣同士の対立の末に擁立されていた若年の当主畠山春王丸が 長続連、遊佐続光、温井景隆らの対立を収めることができず、結果七尾城は孤立し、最終的には遊佐続光の内応によって徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、同年9月13日に開城された(七尾城の戦い)。朝のうちのみぞれも昼食前には薄日の差す陽気になり寒さもほとんど感じない、付近にフキノトウが群生しおりまだ花が開いていないものをひと抱えお持ち帰り、酢味噌和えでいただきました。能登食祭市場に寄りタラバガニの売り場を探索この地で獲れる加納ガニが一つ一万円を超え、タグが付けられ他の産と区分けされていました。

画像5時少し前今日のお宿 湯けむりの宿 美湾荘に到着しました。開湯1200年とされる歴史の古い温泉で、傷ついた白鷺が癒しているのを漁師が発見したと伝えられる。地名の和倉とは「湧く浦」、つまり湯の湧く浦(入り江)であり、海の中から発見された。そのため、潮が退いている時でないと湯を利用することができなかったが、近世には七尾城主の畠山氏、加賀藩の前田氏によって温泉が整備され、共同浴場が置かれた。温泉地として本格的に開発されたのは明治時代になってからであり、戦後になって交通アクセスの向上に伴い、温泉街も大規模化した。高度経済成長期になって能登半島方面に観光ブームが沸き起こり、その後七尾線の電化に伴う特急乗り入れが開始し、急速に宿泊客が増加した。一時は同じ石川県内加賀温泉郷や隣県である福井県の芦原温泉と同じく歓楽要素を持っていたが今日その傾向は薄く、「日本一の旅館」と言われる加賀屋の影響もあって各旅館とも高級指向を全面に打ち出している。今日では山代温泉と並び、県内温泉地における宿泊客トップを競う形となっている。 2007年(平成19年)3月に発生した能登半島地震では大半の旅館が被災しほとんどの旅館が営業停止となったが、大部分の旅館は4月1日までに営業を再開したという。
ここ湯けむりの宿 美湾荘は露天風呂の眼下に七尾湾が展開し見応えのある眺望でした。料理も工夫を凝らしアンケートの分析をサービスに取り入れている姿勢に満足、特に白魚が5匹ほどの踊り飲みが珍しく堪能しました:インターネットで見つけてくれた嫁さん・応援してくれた娘に


画像27日朝8時半ホテル前で記念撮影・昨日訪問した食祭市場を再訪、土産品のタラバがに一杯を お買い上げ宅配便に、一路能登有料道路 (金沢と能登半島とを直結する自動車専用道路で、石川県道路公社が管理・運営する この道路は、昭和57年に全通した。地方道路公社が運営する路線としては、全国で2番目の低料金で利用でき、石川県民の生活や、産業活動、観光に大きな役割を果たしている。海岸沿いは砂丘地帯で、黒松やニセアカシアの並木を縫い、所々で日本海が一望 山間部は、丘陵地を抜け、別所岳SA付近では、七尾湾や能登島も一望・シーサイドとスカイラインを兼ね備えた道路だ)を金沢市街の近江町市場の見学・そして海鮮丼の昼食。  

画像近江町市場の海鮮丼が20人程の順番待ちで、永平寺を巡るだけの時間しか取れないようだ。                                                 

           


 能登有料道路                      兼六園唐崎松
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石川県金沢市にある兼六公園。広さ約3万坪、江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残している。国の特別名勝に指定されている。岡山市の後楽園・水戸市の偕楽園と並んで、日本三名園の一つに数えられている。金沢市の中心部に位置し、旧百間堀を道路とした百間堀通り(百万石通り)を橋で渡ったところの石川門から、金沢城を復元中の金沢城公園へと続いている。
名称は宋代の詩人・李格非の『洛陽名園記』に由来する。「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」との意味で、当時の老中松平定信が命名したとされている。とくに、小立野台地の先端部に位置していることから、園内に自然の高低差がある。これによって、園路を登りつめていく際の幽邃な雰囲気と、高台にある霞ヶ池周辺の宏大さ、眼下の城下町の眺望を両立させている。
春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩として情緒を添える。霞ヶ池を渡る石橋を琴に見立てて徽軫(ことじ)をなぞらえた徽軫灯籠(ことじとうろう)は、兼六園を代表する景観となっている。園内の噴水は、日本に現存する最も古い噴水であるといわれる。これより高い位置にある園内の水源、霞ヶ池から石管で水を引き、水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせている。そのため、水が噴き上がる最高点は、ちょうど霞が池の水面の高さに相当する。ポンプなどの動力は一切用いておらず、位置エネルギーのみを利用したものである。園の東南側には、13代藩主前田斉泰が母親である眞龍院の隠居所として建てられた成巽閣が現存する。なお、金沢の地名は園内にある湧き水「金城霊沢」(きんじょうれいたく)を由来としている。

  霞ヶ池                         髄身坂の梅林     画像画像











北陸道に入り金沢西インターから丸岡インターまで永平寺には3時少し前だったか以前訪れた時は団体バス旅行、酔客と同じ状態今回は山門入口から深山幽谷の雰囲気が漂い、修行僧の説明を聞いた後 各伽藍を威儀を正し見学してきました。
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗大本山の寺院であり、山号を吉祥山と称する。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。總持寺とならんで日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。本尊 釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来 創建年は 寛元2年(1244年) 開山= 道元  開基= 波多野義重  文化財 普勧坐禅儀(国宝) 梵鐘、道元禅師嗣書ほか(重要文化財) 山門、中雀門(福井県指定文化財) となっている。

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永平寺は大きく分けて、七堂伽藍方面と吉祥閣方面に分けられます。修行僧は七堂伽藍の僧堂で坐禅をしますが、こちらは正式に入堂を認められた修行僧しか入れません、参禅者の方の声:吉祥閣にある坐禅堂で坐禅をします。食事は修行僧と同じ物が食べられます! 朝はお粥で、昼は麦飯、一汁一菜のに別菜がついただけの精進料理で、身体にいい?:との事:参禅者は基本的に雲水と同じ生活をするので、法堂で行われる朝課(注−護摩は焚きません)にも随喜します。法堂は七堂伽藍の一番上にあり、とても寒いです・・・。道元禅師は寒苦をおずる事なかれ! 寒苦いまだ人を破らず不修をおずべしと申されています。永平寺での禅修行で何かをつかんで、それぞれの人生にいかしてくださいませ: との事。体験修行の希望者は10日前までに電話で予約し、往復はがきで申し込みます。坐禅や作務、読経など、朝から晩までの修行があり、禅宗の厳しさを体験出来るようです。
復路は小松を18時20分発:静岡空港行きに乗るため16時過ぎ、修行僧の一年間の修行記録のビデオ放映の途中、退出 1時間少し滞在しただろうか?

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往路は空色・復路はピンクの富士ドリームエアーラインで19時少し過ぎ静岡空港着、室内アナウンスでは15分ほど予定よりも早く着陸予定を告げ、45分で着陸 沼津に21時着だった。結構利便制があると感じました、皆様に利用をお勧めです。
2009年7月、富士山静岡空港をベースに就航したフジドリームエアラインズ(FDA)、76席というキャパシティの本機種は、大手2社の空白路線となる静岡−小松・熊本・鹿児島には最適だったようだ。 現在は3機が運航され、初号機01FJが赤、2号機02FJが水色のマルチカラーで静岡の空に彩りを添えている。
松本空港からも運航を依頼され、2010年導入された3号機はピンクで、胴体をストレッチしたERJ175・座席数も84席と少し大型化した・いずれもブラジル製との事。 また日本航空が3月31日で札幌・福岡便の撤退を決めた その穴埋めも計画してさらなる増機を予定しているようだが、観光・ビジネス客の増加と安全対策の確立を高め、無事故での航行を祈る。                                                                                   参照 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)






















 







                                                                                                                             

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やっぱりタラバガニが好きなんです。
みなさん、こんばんは(^o^)/なんだか、達成したい事は沢山ありますが、怠けてしまい、一向に進みません。皆さんはいかがでしょうか?テレビショッピングで本タラバガニが登場するたびに「美味しそうだなぁ」と遠い目で見つめるかチャンネルを変えていた自分にとって、目の前に広がるタラバガニの姿はまさに圧巻の一言。とくに今年はロシアなどからの輸入量が減っているとのことで、タラバガニは例年よりも高めと貴重なグルメなのです。それにしても、テレビショッピングのかには、なんであんなにおいしそうにみ... ...続きを見る
激安かに通販 全額返金保障はココ!
2010/04/20 00:36

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは、、「北海どんどん」かに☆ブロガーです。
ネットサーフィンでたどり着きました。
とてもよく出来ているブログですね!
タラバがにと言うキーワードから、トラックバックさせていただきました。
ブログ、これからもがんばってください!
かに☆ブロガー
2010/04/20 01:11
かに☆ブロガー様:ありがとうございます。能登食祭市場で見たタラバ蟹の大きさ、毎正月食すると同じくらいに見えました、宅配で届いた物単品で見ると意外に小柄だったですね写真を掲載できずに残念です
ミッキー
2010/04/20 10:02
 謙信は畠山家と争ったのではなく、元城主・畠山義続・義綱親子を追放した、『能登家臣七人衆』の長龍連父子と争ったと思うのですが…。
金沢では、どんな風に伝えられているのしょう?
その後すぐ、謙信が急死してしまったので、反畠山家だった長龍連氏側の都合の良い話で伝えられているのでしょうか?

過去に謙信の父・為景は、畠山義続の七尾城奪還を援護して失敗してから後、謙信は畠山義続の次男(義綱の弟)を引き取り
養子にして、上杉家の名門・上条家を継がせて上条政繁と名を成しています。
その後の七尾城・無血開城の時も、畠山義隆(畠山義続の孫かひ孫)の遺児を保護して、後に叔父(又は大叔父)の上記の上条政繁が養子にして、上杉家の元で養育しています。
後に畠山義春と姓を元に戻して畠山の名跡を守っています。
 畠山家の子孫・畠山一清が東京の五反田に設立した有名な「畠山記念館」に、その辺りの記録が記されているかもしれません。
畠山家
2010/06/14 13:53
御指摘有難うございます静岡の在のものです:文献を参考にして書き込んだものですどうぞご理解を(^・^)要約すると=七尾城の城主は畠山氏であったが、現実的には家臣の長続連・綱連父子、遊佐続光・温井景隆らが実権を握っていた。謙信方は、難攻不落と呼ばれる七尾城を力攻めにするのは時間がかかるし犠牲も大きいと考え、城中の遊佐続光・温井景隆に「内応すれば畠山の旧領と七尾城を与える」との約束を伝えた。内応派は早速に長一族百余人を殺害し七尾城は開城となった:この後暫く能登は上杉勢力下だったが、謙信死後は能登国内の反上杉勢力や飛騨経由で越中に攻めこんだ織田勢力に圧迫され、信長の手に帰した。1581(天正9)年、織田信長による北陸制圧後に能登一国を与えられた前田利家は七尾城を居城とし、翌10年から利家により大規模な改造が実施され、 暫く利家の子の利政が城主となっていたが、港に程近く平地の小丸山城に拠点を移したため、1589(天正17)年七尾城は廃城となった。畠山家の御子孫様でしょうか ?畠山義続・義綱とも長龍蓮父子とも遊佐・温井とも戦ったと理解しました。

ミッキー
2010/06/15 14:30

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